茂木基金
茂木基金
ボンボンは普段は滅多に乗らないタクシーの中で感じていた。茂木さんと早苗ちゃんと京都のお庭を歩いて、京都駅前のホテルのレストランで別れてからまだ一ヶ月も経っていなかった。それが今また茂木さんと再会出来る。それも自分の国で、しかも自分の家で会うことが出来る。ボンボンの喜びは非常に大きかった。昨夜、偶然にもホテルのカフェで茂木さんと話がしたいとおもった。その願いが現実のものとなったのだ。ボンボンはタクシーをアパートに横付けさせてサンチャゴのアパートに一目散に飛び込んだ。玄関の網戸を開けて中に入ると、驚いたことにソファーには双子の美人が座っていた。あまりに二人がそっくりな顔をしていたのでボンボンは一瞬面食らってしまった。これほどよく似た双子を見るのは初めてであったからだ。それだけではない、それもかなりの美人であったから、ボンボンは慌ててしまった。
「ああ、どうも、いらっしゃい。」
ボンボンが日本語で挨拶したので、きちんと座っていた二人の美人は安心したように微笑み、軽く会釈をした。ボンボンが続けた。
「茂木さんはどこでしょうか?」
菊千代がボンボンの問いかけに答えた。
「お手洗いどす。」
「お二人は京都の人ですか。あ、これは失礼しました。まだ自己紹介していませんでしたね。ごめんなさい。僕はボンボンと言います。この前、茂木さんに京都を案内していただきました。京都は良いところですね。今でも三人で眺めた夕暮れ時の鴨川の流れを思い出しますよ。何と言うのかな、どことなく物悲しい風情がこの僕でも感じることが出来たのですよ。また機会があったら、京都へ行ってみたいですね。」
千代菊が口を開こうとすると、茂木が奥のトイレから気恥ずかしそうに出て来た。
「やあ、ボンボン、ごめんなさい。突然お邪魔して、いやあ、参りましたよ。ちょっとお腹をこわしたみたいだ。」
ボンボンは茂木の腹の具合が悪いことを聞いて一瞬、顔の表情が曇ったが、すぐに茂木にまた会えたという喜びの方が勝り、明るい表情に変わって言った。
「いつ、こちらへ来られたのですか。連絡をくだされば空港まで迎えに行ったのに。ああ、そうか、僕は昨日着いたばかりで、茂木さんたちの方が先に着いていたのでしたね。でもとても嬉しいですよ。また会えて。昨夜、嫌なことがありましてね、茂木さんならどうおもうかと、ふと、考えていたのですよ。まさか僕の家でこうして会えるなんて、まるで夢を見ているようですよ。」
「すまん、突然来たりして、本当に急だったものだから、それに君はまだ日本にいるとおもっていたものですから、こちらから日本にいる君に連絡しようとおもっていました。こちらに来たのはいいけれど、別段行くあてもなく、ふらりと君からもらった名刺の住所を訪ねてみましたら、君が昨日からマニラに帰ってきていると聞いて、どうしても君に会いたくなりました。それで無理を言って連絡をお願いした次第です。」
「そんなこと当たり前じゃないですか。茂木さんはいつだって大歓迎ですよ。ところで、茂木さん、このお二人の京都美人は?」
「ああ、そうか、紹介するのをすっかり忘れていましたね。ボンボン、こちらは千代さんと菊さん。どっちがどっちだかよく見ないと私にも分かりませんが、私が世話になっていた下宿の娘さんたちですよ。」
「世話になっていた。なっていたということは、茂木さんはもうあそこは出られたのですか?」
「ああ、もう引き払いました。すまない、また来た、トイレだ。失礼するよ。」
茂木は再びトイレに慌てて駆け込んでしまった。お手伝いのリンダがパイナップル・ジュースをオヘダのアパートから運んで来た。それを千代菊と菊千代の前にそっと置いて、ボンボンの方を見た。ボンボンはポケットからお金を出してビコールの言葉で言った。
「リンダ、このお金でお腹の薬を買って来ておくれ。十錠もあればいいかな、それからビールも少し買って冷やしておいてくれないか。今日はお腹の調子が悪いから飲めないので、薬だけ買って、ビールは明日でもいいよ。」
ボンボンはリンダにお金を渡した後、自分もソファーの隅に身を沈めながら、まだ神妙な顔をしている二人の美人に向かって言った。
「このジュースは大丈夫ですよ。純粋な100パーセントのジュースですから。もし良かったら、どうぞ。」
菊千代が答えた。
「おおきに、いただきます。ボンボンはんは茂木はんが言ってはった通りに日本語がお上手どすな。」
「ありがとう。でも、お二人は本当によく似ていますね。みんなから同じことを何度も言われて、もううんざりでしょうね。ごめんなさいね。でも本当に似ているから、つい言ってしまいます。ええと、どっちが菊さんでしたっけ?」
その時、茂木が手をTシャツの後ろで拭きながらトイレから出て来た。
「まいったよ。」
「何か生ものでも食べましたか?」
「いいや、生ものは食べていないよ。」
「生水はどうですか。」
「生水も飲んでいないよ。オレンジのソフトドリンクを飲んだだけだよ。」
「その中に氷は入っていましたか。」
「ああ、紙コップのソフトドリンクだったから、氷もたくさん入っていたよ。もったいないからガリガリそれも食べちゃったよ。」
「それかもしれませんね。まだこちらの水に慣れていないから、あたったのですよ。」
「なあ、ボンボン、ところでさ、トイレにトイレットペーパーがないのだけれど。」
「ええ、ありませんよ。みんなペーパーは使いませんから。用を足したら水で洗って、紙は使いません。紙は高いので使いません。」
「それから、水道の蛇口をひねっても水が出てこなかったけれど。」
「ええ、出ませんよ。最近、この辺は夜間の三時間だけしか水は出ませんから、ああやって大きなポリバケツに水を貯めているのです。毎晩、交代で当番を決めて貯めています。水がチョロチョロと出始めてくる時は水道管の錆ですかね、茶色い汚い水が出てきますからね、少しの間、流してから貯めないと汚いですからね、必ず誰かが水道の見張りをしなくてはなりません。ここでは水道の蛇口をひねれば24時間いつでもジャーっときれいな水が出てくる日本のようなわけにはいきません。トイレの中にプラスチックの手桶があったでしょう。あれで大きなポリバケツの中の水をすくってお尻を洗ったり、身体を洗ったりします。トイレを流す時は小さなバケツを使って一気に流します。」
茂木の表情は少し曇ってきていた。後ろで聞いていた千代菊や菊千代の心も平常心ではいられなくなっていた。
「ボンボン、それからトイレの窓のところに渡してある針金に何枚かタオルが干してありましたが、ちょっとお借りしましたよ。」
「何色のタオルですか?」
「黄色いのです。」
「ああ、それなら大丈夫。黄色いのは僕の専用の尻拭きタオルですから、ええと、いつだったかな、あのタオルをおろしたのは、この前、正樹を連れて来た時だから、ちょっと前ですよ。きれいきれい、大丈夫ですよ。多分、誰も使っていないとおもいますよ。」
茂木は自分の表情がこれ以上変化しないように努めた。
「マニラは水不足なのですか?」
「はい、慢性的な水不足ですね。まだ、このケソン市は良い方ですよ。ここはダムに近いですからね。夜中に三時間も出ますからね。」
千代菊と菊千代は茂木とボンボンの話を聞いているうちに、自分たちの表情がだんだん暗くなっていることに気づいていた。日本からほんの四時間、飛行機に乗っただけでまったく違った世界に来てしまっていた。道ですれ違う人々はボロボロのTシャツにビーチサンダルの格好である。それだけでも京都の花街から来た人間にとっては気持ちが大きく沈んでしまう。
「茂木さん、ところで、ご予定は?いつまで、こちらにいられるのですか。」
「それが、まだ決めていないのですよ。出来るだけ長く滞在したいのですがね、イミグレーション(出入国管理局)で長期滞在のビザに変更が出来るだろうか?一日でも長くいたいのですよ。何とかならないだろうか?」
「調べてみましょう。確かではありませんが、一年間は観光ビザを何度か更新して滞在が出来るとおもいますよ。他にも方法はあるかとおもいますので、調べてみましょう。ただ、お金はかかりますよ。更新する度に費用もかかります。あそこには複雑な手続きにつけこんで商売をしている連中もたくさんいますからね、言葉が分からないで立ち往生している日本人の姿をよく見かけますよ。手続きの時間もかかるし、お役人もとても親切とは言えませんね。あまり評判はよくありません。まあ、日本もアメリカもどこの国でも移民局は同じようなもので、仕事の量に比べて、お役人の数が圧倒的に少ないからそうなるのだとおもいますね。」
「ボンボン、どうか力をかして下さい。出来るだけ長い滞在許可をとりたいので手伝って下さい。」
「もちろん、茂木さんの為なら何でもお手伝いしますよ。でも、僕の方はいいですけれど、茂木さんの学校の方はどうしたのですか?」
「ああ、しばらく休学することにしました。」
「それから、このお二人のことも・・・・・。まあ、それはまたゆっくりお聞きするとしますか。分かりました。イミグレーションへ一緒に行きましょう。」
「ボンボン、ホテルにいるお客様は大丈夫なのですか。ボンボンがいないとその日本人の社長さんは困るのではありませんか。」
「いいえ、どうせ渡辺社長は昼間は寝ているだけですし、それに彼には失望しましたから、もういいのです。助平社長のことは気にする必要はありません。」
渡辺社長という名前を聞いた瞬間、千代菊と菊千代の目が大きく見開いた。ボンボンが続けた。
「明日からは弟のネトイに社長の案内をさせますから、どうぞ心配しないで下さい。茂木さん、でもどうしてフィリピンなのですか?それにこのお綺麗なチヨさんとキクさんがどうして一緒なのですか?」
「ボンボン、この近くで二人だけでゆっくり話が出来る場所はありませんか。あ、そうか、その前に、この二人をしばらく休ませたいのですが、部屋をかしてはくれませんか。」
「ええ、上の部屋を使ってくださって結構ですよ。」
ボンボンは千代菊たちの荷物をかかえて、二人を二階の部屋に案内した。扉を開けて先に入り、窓を開けながら謝った。
「ごめんなさいね、エアコンがなくて暑いでしょう。今、扇風機をつけますからね。」
「おおきに、あの、ボンボンはん、さっき言ってはった渡辺社長さんいうのはどんなお人どすか?」
ボンボンは部屋に置いてあった自分のカバンの中をかき回しながら言った。
「ああ、お二人と同じ京都の人ですよ。ちょっと待って下さい。確か、お茶屋さんで撮った写真がありますからね、ええと、どこだっけな、あ、あった。これです。これが渡辺社長ですよ。」
それはボンボンと渡辺社長が舞妓さんと芸妓さんに挟まれて四人で撮った記念写真だった。千代菊と菊千代の二人はじっとその写真を見つめていた。そこには小菊ねえさんが写っていたからだ。黙って京都から逃げて来た二人だ。兄弟姉妹よりも大切な、とても世話になった小菊ねえさんは自分たちの後始末もちゃんとしてくれていたのだった。その姿を見ると身を切るように辛かった。二人は涙を一生懸命に堪えた。ボンボンに自分たちに降りかかった不運を悟られまいと必死に平静を装った。
ボンボンは近くのレストラン「サムスダイナー」に茂木を連れていくつもりだった。二人は歩きながら話をした。
「ねえ、茂木さん、この国には至る所にスラムとかスクワーターがあります。隙があると不法滞在者の掘っ立て小屋がすぐ作られてしまいます。見てください、ほら、そこにもありますよ。印刷工場の塀のわずかな隙間にも百人以上が住んでいるのですよ。工場の従業員もたくさんその隙間に住んでいます。でも、職がある彼らはまだましな方ですよ。」
「ボンボン、運だよ。フィリピンはついてなかっただけだよ。でも資源も豊富だし、自然、特に海の景観には素晴らしいものがあるしね、フィリピンはこれからだよ。夢がたくさんある国だと私はおもいますよ。」
「茂木さん、実は、今、ホテルにいる日本人の社長はね、フィリピンで事業を起こしたいから僕に案内してくれと頼んできたのですよ。ところが、どうも女目当ての食わせ者だったみたいです。がっかりです。」
「多いのかね、そういう連中は?」
「はい、だんだん増えてきていますね。」
「困った問題だな。同じ日本人として恥ずかしいよ。すまんな。戦争で迷惑をかけておきながら、また懲りずにこの国に来て悪さをしているのか、話にならんな。たまたま経済大国になっただけで、偉くなった気でいるのだよ、日本人はね。私は買春ツアーの問題は行き着くところ、結局は、父親からも母親からも、そして社会からも見捨てられていく日比混血児たちの救済をどうするのか、ということにつきるとおもいますね。」
「私も同感ですよ。このままだと何の罪もない子供たちがどんどん犠牲になっていきますからね。おそらく僕たちの政府の救済はまだまだ先のことになるとおもいますし、日本政府にいたっては、まったくそんな子供たちの存在すら知らないとおもいますね。」
「そうだね、その通りかもしれない。ボンボン、どうだろう、僕一人では何も出来ないかもしれないが、身勝手な日本人たちが捨てていった子供たちを一人でも多く救い出す方法はないだろうか?」
あまりにも唐突な提案でボンボンは驚いた。茂木がさらに話を続けた。
「いい加減なことを言っているのではありませんよ。実は、私には貯えがあります。しかも相当な額の貯えがあります。以前から、どうやってそのお金を役立てようかと考えていたところだったのですよ。一人だって二人だっていい、出来るだけ多くの忘れられた日比混血児たちに夢を与えることが出来たら私は本望ですよ。」
ボンボンは何と言って良いのか分からなかった。あまりにも話がでかすぎて言葉がまとまらなかったのだ。茂木が続けた。
「ボンボン、手伝ってくれませんか。わたし一人では何も出来ませんから。」
「もちろん、手伝いますとも。誰がそんな素晴らしい提案を断りますか。」
「どこか、子供たちに生きる希望と勇気を与えてくれるような場所はないでしょうかね。親からも社会からも見離された子供たちだ。とびっきり、きれいな場所が良いですね。皆が羨ましがるような素晴らしい場所でたっぷりと子供たちに夢を与えてやりたい。ボンボン、どこか良いところを知りませんか。ゴミゴミしたところではダメです。やる以上は最高の環境でやりたい。上等の場所を知りませんか?」
天才のボンボンはしばらく考えた。そしてゆっくりと言った。
「茂木さん、ボラカイ島にしましょう。ボラカイ島がいい。天国に一番近い島、ボラカイ島にしましょう。」